REPORT

2018.08.08

浪江町から遠く離れて(クラリネット高松彩香さんの場合)

浪江町から遠く離れて(クラリネット高松彩香さんの場合)


前回のフルート菅野桃香さんに続いて、もう一人の浪江町出身の団員に個別インタビューを行いました。

今年度の始まりにあたり団員全員にあらためてプロフィールのアンケートをお願いしました。現住所や実家の住所に加えて出身地の欄を今回追加したところ、「浪江町」との回答者が現在は東京の音楽大学に通う4年生、高松彩香さんでした。昨年度から東北ユースオーケストラに参加してくれています。

ぜひ体験談を語って欲しいと、6月の合同練習会の昼休みや練習の合間の休憩時間のタイミングで話を聴いたものの、とてもその制限された時間内でおさまる内容ではありませんでした。あらためて時間を取って話を聴くことになったのですが、音大生というのは忙しい日常を送っているのだとよくわかりました。夏休みに入ってようやく時間を合わせることができ、7月下旬の平日の下北沢で落ち合い、2時間ほど話を聞きました。

福島県浪江町(なみえまち)。東京電力福島第一原発に、一番近い場所で約4kmしか離れていない町。昨年の3月31日に町の一部の避難指示が解除された町です。

今日は時間をつくってくれてありがとう。あらためて311の時、どこで何をしていたのか教えてください。

中学二年生で、その日は卒業式だったので、早く帰って学校にはいませんでした。自分の家ではなく、徒歩五分くらいのおばあちゃんの家に二人でいました。
最初は普通の地震かな、いつものような地震だと思っていたら、だんだん揺れが大きくなるし、長いし、これは凄い地震だとびっくりしました。幸い家具は倒れなかったけど、物は落ちてきたので、玄関のドアを開けて逃げられるようにと避難通路を確保しました。家の外に出てみると、ひどかったです。カーポートの屋根に瓦が剥がれて落っこちていて、玄関の前のプロック塀が倒れてしまっていました。住宅地だったので、住んでいる人たちがみんなで家の外に出て来て騒然としていました。

そのあとはどうだったんですか? 停電にはならなかった?

おばあちゃんの家は停電になりました。そのため両親と合流できるまでは携帯の地震情報のみが便りでした。

ご家族とどうやって会えたんですか?

家業が外装工事の仕事で、お父さんお母さんは富岡町の仕事現場にいました。現場が海に近かったので、津波が来て、慌てて逃げないとと車でいつもは通らない山側の道を飛ばして戻ってきたそうです。どの道を通ったかも覚えていないと聞きました。お父さんお母さんはまずは住んでいたアパートに行って、飼っていたワンちゃん、ダックスフンド二匹、ポメラニアン一匹を取りに行き、避難できる荷物を持って、おばあちゃんの家に来てくれました。
実はおじいちゃんは富岡の原発でバスの運転手をしていました。場内やシャトルバスの運転です。夕方の四時か五時くらい、おじいちゃんは「原発も津波を被っただろうね」と言って家に帰って来ました。
ひんぱんに余震もあったので怖く、夜は近くに住む、高齢で車の運転もできない親戚のおじさんおばさんの家にみんなで集まりました。おじさん90歳、おばさん84歳でした。電気が通っていた自宅アパートでいっぱい炊いたご飯も持って行きました。
すると、夜に消防団の人が来て、「今すぐ避難して」と言われました。原発のことは、はっきり言わず、漠然と避難するようにとのことでした。

理由もわからず、とにかく逃げろ、と。

後から聞くと、浪江町は富岡町とかよりも避難指示が早かったそうです。

どこに逃げたんですか?

浪江の人たちは北上した津島地区へ避難した人が多かったのですが、私たちは母の一番下の弟の住む霊山に逃げました。人間7人に犬3匹。そして迎え入れてくれた家に5人。もう原発は爆発していましたから、とても戻れず、結局その家に1週間いさせてもらいました。しかし、12人に犬3匹の生活はいっぱいいっぱいで当然ダイニングで寝る人もいました。自分たちが逃げる時に持っていった米や周辺の農家からいただいたお米や野菜もあって食事には不自由しなかったのですが、みんな慣れない生活で、みんな情緒不安定になってつらかったですね。母の弟は自衛隊に勤めていらっしゃったので、捜索活動や余震のたびに出動がかかったりして、それはそれは大変そうでした。結局、そこには長くは滞在できないので、わたしと高齢のおじさんおばさんと3人で東京に避難しました。おばさんの娘さんの家です。
おじいちゃんおばあちゃんは、福島市に住むお母さんのもう一人の兄弟、その方も自衛隊の方なのですが、その家にお世話になりました。お父さんお母さんは、埼玉に住むお父さんの親戚の家に犬とともに行きました。そのお宅も犬を飼っていたので受け入れてもらえました。

みんなバラバラになったんだ。

わたしは東京での生活が苦しく、耐えられなくなって、4月の半ばに福島市のおじいちゃんおばあちゃんの避難先に移りました。
お父さんお母さんは仕事の現場がいわき市にあったこともあって、毎日車で2時間半かけていわきで仕事と家探しをしてくれていました。ようやく住むところが見つかって、いわき市に引っ越し、5月のゴールデンウィーク明けにいわき市の中学校に転校することができました。浪江の中学校からは、その後一回だけ安否確認の連絡があっただけです。
おじいちゃんは原発の仕事で新潟県の柏崎に移り、おばあちゃんは生まれ故郷だったいわき市に引っ越しました。

高松さんのいわき市での生活はどうなったの?

新しいいわき市の中学で、避難地区からの生徒はわたし一人だけでした。絶対馴染めないだろうなと思いましたね。ひと学年10クラスくらいのマンモス校でした。幸い中3で、同じクラスで2人くらい友達ができました。

浪江時代の友達とは、友達の避難先の福島市、二本松市に行った機会に会うくらいです。たまたま今住んでいる小田急線沿線の同じ駅に小学生からの同級生が、東京の大学生となって住んでいて、しょっちゅう会います。

浪江町には311の後、何回か行きましたか?

事故から2年後、高1の時に防護服を着て帰りました。自分の家、おばあちゃんの家を見に行きました。そして、大事なものを取りに。好きだった『シャーマンキング』の漫画や本、それに当時使っていた教則本や楽譜です。中学まではサックスを吹いていたんです。
人がいたはずの場所なのに、もう誰もいない。あちこち草がぼうぼうと生い茂っていました。近所に人の気配がまったく無く、本当に人がここからいなくなったんだな、もう帰って来れないんだなと現実を見せつけられたようで怖かったです。戻る前に先祖のお墓にお参りをして、家族みんなで草むしりをしました。

その後、浪江町には2回戻りました。3年前、大学1年の時に中学校から私物を返しますと連絡がありました。学校に置いていた絵の具とかは、もう使えないからどうでもよかったんですが、吹奏楽部の部室に置いていた楽譜を取りに行きたくて浪江に行きました。

(取り壊す前のおばあちゃんの家)

3回目は去年の3月です。自分たちの一家が住んでいた町営住宅のアパートが建て直されるというので。取り壊される前に見ておきたかった。

高松さんはいつから楽器をはじめたの?

小学校三年生の時からサックスをはじめました。浪江の中学では吹奏楽に入って吹いていました。中学校三年生でいわきに転校して、やはり吹奏楽部に入ったのですが慣れなくて。部員の人数も多く、100人は超えていました。強かったので、みんな競って、パートのオーディションもあり、いつの間にかわたしは幽霊部員になっていました。
でも家では練習したりしていて、音楽は逃げ道だったです。ストレスの発散になりました。環境が違うところで馴染むのにも、楽器を吹いている限りは何も考えなくていいから、音楽に集中して気をそらすことができました。
いわきの高校でも吹奏楽に入りました。本当はそのままサックスをしたかったのですが、クラリネットが一人もいなくて、ジャン負けして(ジャンケンで負けての意味だそうです)クラリネットになってしまいました。もう一人がコントラバスからの転向だったので、わたしがクラリネットのファーストを担当することになってしまいました。それからというもの、ついて行くのがやっとで必死の日々になりました。部活は15、6人の小編成で、先輩も優しく、とても馴染めました。最初は嫌々だったけど、クラリネットで結果良かったです。

高松さんにとって311の体験は、人生をどう変えましたか?

実はわたしにとってみれば、いいきっかけではありました。
浪江にいた時は不登校気味だったんです。でも住む環境がガラッと変わって、もちろん慣れるまでは大変だったですが、気分が変わりました。
あのまま地元にいたら近くの高校は一校だけだったし、高校を中退して今ごろニートになっていたかもしれません。
わたしには、いわきの高校が良かった。

いわき市の人って、福島県でも独特な気質があるとか聞くね。

サバサバしていて、負けん気が強いですね。浜っ子って言われます。東北ユースオーケストラで見たことあるなという人は、だいたい高校時代の吹奏楽のコンクールで同じ会場にいた人たちですね。チューバの富澤さんとかよく覚えています。

ふるさとに戻りたいという気持ちは無かった?

浪江には戻る気はなかったですね。高速で1時間くらいで行けるのですが、帰りたい、は無かったです。
最初のうちはこんなに近くにいるのに、何で帰れないんだろう。何でこんなに精神的にざわざわしないといけないんだろうと複雑な思いでした。でも、高校に入って吹奏楽で忙しくなって、考えている暇が無くなりました。余計なことを考える時間が無かったです。もう、うだうだ言ってもしょうがないという心境になりました。

東北ユースオーケストラではどんな活動をしていきたいですか?

東北ユースオーケストラでは、過去に起きたことをこれからの人に伝えて行きたいです。そして、起きてしまった原発事故の大変さ。しかし、そこから立ち直れた。メディアで出ていることばかりではなく、さまざまな角度から理解を深めてもらえたらと思います。ずる賢い人はお金をもらって暮らしていたけど、それはほんの一部です。浪江出身というだけでそう思われるのは嫌です。
「大変だったな、でもお金もらっているんでしよ」「避難民なんだろ」と、いじめられ、疎外される。人為的なことで起きたことなのに。「体験してみたらわかるよ、このつらさ」って言いたいです。避難先で気をつかって洗濯機を使わず、わざわざ外のコインランドリーに行ったという人もいました。それくらい気をつかったんです。

幸いわたしはお金をせびられるようなことは無かったです。受け入れ先の住民の人たちの中には「君らはお金持ってるんでしよ。こっちは受け入れてやってるのに自分たちには何にも無いのか」という人もいました。お金がからむとややこしいです。でも、お金をもらえるというには理由がある。その人の立場に立って考えてほしいな。そう思います。

だから、うちらから発信していって、実際体験していない人たちにも、この体験を共有できたらと思います。沖縄、広島、長崎の戦争体験も共有していくのが大事だと思うんです。

福島第一原発の事故から、町に帰れるところまではきました。そんなに変化するものなのだなと感慨深いです。昔の戦争も焼け野原になって、大変なところから変わっていった。わたしはしようと思っても出来ない体験をした一人として、伝えていきたいです。

復興ということについてどう考えますか?

まだ事故は続いています。復興はしてきてるとは思うものの、まだ復興はしていません。しかし、完璧に復興してると思ってる人もいます。増えてきているようにも思います。私自身も時々忘れているときがあるけど、事故の当事者に寄り沿って考えて欲しいです。

原発に対する対策は本当にしっかりして欲しいです。災害に対する備えですね。しないと同じことが起きると思います。

東北ユースオーケストラの演奏活動はどうですか?

大変だけど楽しいです。ずっと吹奏楽だけやってきたから、そのフルオーケストラとの違いなんでしょうね。楽曲の構成への理解や繊細さを求められます。オケに入るまでの大学2年までは少人数での演奏でした。
だから東北ユースオーケストラで楽曲のクライマックスを演奏していると、みんなで演奏できる喜びというか、全員の音が合ってると鳥肌がたちます。あー、いま気持ちいいなと実感できます。

坂本龍一監督の印象は?

坂本監督は凄すぎて怖いです(笑) お父さんはYMO世代ですので、よく「お前はどれだけ凄い人と一緒にいるのかわかってるのか」と言います。
もちろんわたしも前から「ラストエンペラー」や「戦場のメリークリスマス」は知ってたし、好きでした。
何かオーラが違うんです。この人と一緒に演奏するんだと思うと、今までに無い緊張感を味わっています。

今回のメインの楽曲ブラームスの交響曲第2番はどうですか?

前回のドビュッシー、ストラビンスキーも難しかったですけど、「ブラ2」も難しいです。やりがいのある曲ですし、勉強になります。大学一年の時に授業で習ったソナタ形式を思い出しています。音楽のつくりとか、学校で習ってもなかなか身につかず、でも実際に演奏することでわかることも多いです。

結局、高松さんには2時間しっかり話を聞くことができました。どうもありがとうございました。本当はもっと心を揺さぶられ、締めつけられるような体験も伺ったのですが、そのエピソードを今公開してみても当事者の人たち誰にとっても良いことではないと判断しました。「忖度」ではありません。高松さんもわたくしも、人間の暗い側面を暴き立てることを仕事とする訳では無いから「割愛」したまでです。
図らずも高松さんの20年を超える人生について深く知ることになった身としては、いわき市に転校して、吹奏楽部に入部、そして担当楽器の割り振りでの「ジャン負け」が、とても大きな転機になったのだなと感じ入っています。たった一回のジャンケンです。わたくしが常々追究している「偶然性」の問題に通じます。たまたま負けてしまったジャンケンが、結果的には高松さんの人生を好転させました。負けたからこそ、最初は不本意なクラリネットに打ち込めた。勝ち負けという、わかりやすい直後の感情に左右されることなく、より大局的な観点から、偶然性を自らの味方につけるよう仕向けられることを「幸運」と呼ぶのでしょう。「幸運の女神には前髪しかない」

それにしても、前回ご紹介した同じ浪江町出身のフルート菅野桃香さんとは、違った体験、違った受け止め方、違った想いが、そこにありました。しかし、共通しているのは、このような人為的な事故を繰り返してはならぬ、という強い気持ちなのではないでしょうか。

「本当は写真を撮られるのは苦手なんですけど」と笑う高松さんでしたが、せっかくなので工事が進む下北沢の街並みで記念写真。

今回も末筆ながら西日本豪雨で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。東北ユースオーケストラで何かお力になれそうなことがありましたら、どうぞお気兼ねなくご連絡をいただければと思います。
どうか当たり前の暮らしに早く戻られますようお祈りしています。

引き続き東北ユースオーケストラへのご支援もどうぞよろしくお願いします。