浪江町から遠く離れて(フルート菅野桃香さんの場合)
浪江町から遠く離れて(フルート菅野桃香さんの場合)
いつもは福島市での合同練習会の合間にせわしなく行う団員へのインタビューなのですが、8月の夏合宿までしばらく期間があることもあり、あらためて二人の団員に時間を取ってもらって話を聞きました。二人に共通するのは、東京電力福島第一原発に一番近い場所で約4kmしか離れていない町、福島県浪江町(なみえまち)出身であること。昨年の3月31日には町の一部の避難指示が解除されました。しかし、団員の二人はともに現在は東京の音楽大学に通い、ご家族も浪江町にお戻りにはなっていません。
今年の3月の東北ユースオーケストラ演奏会2018では、初めて団員の作曲作品をステージで演奏する試みを行いました。現代音楽の作曲家として世界から注目を集める藤倉大さんが、実は昔からの坂本龍一監督ファンという関係であったがために、昨年末に藤倉さんによる団員向けの作曲ワークショップが実現し、希望する6名はその成果を演奏会で披露することができました。
フルート担当の菅野桃香さんもそんな作曲家の一人でした。リハーサルで「福島県いわき市出身、大学1年生」と紹介したら、入団申し込み時のデータだったようで、後から「わたしは実は浪江町出身で、いま実家は取り壊され、避難していわき市に住んでいます。浪江町での紹介をお願いします」と明るく言ってきてくれました。彼女のつくった作品のタイトルは「当たり前の幸せ」。この東北ユースオーケストラを通じて表現したい気持ちがあるのだなと受け止めました。いつかまとまった時間を取ってインタビューさせて欲しいと頼んだところ、「聞いてもらったら何でも話しますよ。むしろ話したいです。」と応じてくれました。
東京音楽大学のフルート専攻の2年生として埼玉に住み、池袋の学校に通う忙しい菅野さんと時間を合わせて、平日朝の新宿のファミリーレストランで1時間半しっかり話を聞きました。
今日は忙しいところわざわざ出てきてくれてありがとう。なぜ学校の近くではなくて埼玉に住んでいるの?
防音設備の整った部屋は高いんです。でも学校までは電車で一本だから便利なんです。来年から校舎が代官山に移ってしまうのですが。
それは音大生ならではの悩みだね。お洒落な代官山近くの防音の部屋を借りるとなると、また高くつきそうだね。
たぶん引っ越せないと思います(笑)
今日はあらためて311の時のこと。それ以降体験したことを伺いたいと思います。思い出したくないこともあると思うし、嫌だったら正直に答えたくないと言ってください。どうぞよろしくお願いします。菅野さんは何年生まれですか?
1999年生まれに実はいわき市で生まれてすぐに浪江町に引っ越しました。だから浪江町出身と言っています。
99年生まれということは震災の時は12歳ですね。
浪江小学校六年生で、その日は卒業式の練習をしていました。子どもしかいない三階の教室にみんなでいたら、午後2時46分に突然揺れ出し、「机の下に隠れて」と構内放送が流れても、あまりの揺れに机は動くし、立っていられないしで、そのまましゃがみ込むのが精一杯でした。教室の窓から周辺の家がバタバタ崩れていく風景を目にして大きな衝撃を受けました。今でも脳裏にしっかりと刻まれています。
校庭に避難するように指示が出たのですが、いつもの避難訓練とは違って、構内のいろんなものが散乱した状態で、下駄箱は倒れていて、よじ登ってなんとか校舎に出ることができました。
立て続けに起こる余震の怖さと寒さにおびえていたら雪が降ってきました。もともと福島県の浜(通り地区)は冬でも雪が積もるようなことは滅多になく、もちろん3月に雪が降るようなことは無かったので、とても不吉な思いになりました。その頃、海辺のほうでは津波が来ていたんですね。一番海に近い小学校は跡形もなく流されました。
津波のことを知ったのは夜になってからです。なにしろ停電していましたから。うちの両親はともに小学校の教師でした。発災時は自分たちの受け持つ生徒のケアで手一杯だったようです。
実は姉は中学校の卒業式を終えて、高校受験も終わったことだし家でのんびりしているところ地震に襲われたそうです。うちが瓦屋根の一軒家で、家に飛び出す時に瓦がいっぱい落ちてきて、危ない目にあったらしいです。
(3年後の一時帰還の際に撮影された実家から落ちた屋根瓦の様子)
そのあとご家族はどのように会えたのかな?
幸い両親は姉とは連絡がとれて安心していたようです。姉は隣の比較的新しい分譲アパートに住むピアノの先生のところで避難できていました。
夜の7時くらいに大熊の小学校の教員だった父が学校まで迎えに来てくれました。一緒に学校で避難していた友達が電話で親と「(自分たちが住んでいた)アパートは全壊して潰れてしまった」と会話しているのを聞き、それなりの覚悟はしていましたが、うちの家は最悪ながら建ってはいました。それを確認して、お腹が空いていたので、市役所の体育館で炊き出しの豚汁をいただきに行きました。
家では親の寝室だけが無事で、わたしたち姉妹は両親のベッドで寝かせてもらいました。両親は居間で一晩過ごしました。いつ家が崩れるかもしれないとの不安はありましたね。
その頃、原発はすでに危ない状況にあったよね?
次の日、朝6時に、血相変えた両親に起こされました。「避難するよ、原発が心配だから、町ごと避難するよ」と。人口2万人の浪江の人たちが、なぜ渋滞しながら山の方に向かうのだろうと思いました。近所に住んでいた祖父母もあわせて6人が車に乗っていました。わたしは毛布とお菓子だけを持っていました。町の中心部から内陸のほうに北上した津島地区へと逃げました。
避難所は人一杯であふれかえっていました。実は後からその頃の津島が一番線量が高かったと知るのですが。そこで、ひさしぶりに津島の親戚のおばあちゃんの家へ行きました。昼に素麺をいただいて、テレビで震災の報道中継を見ていたら、福島第一原発が爆発しました。実際、おばあちゃんの家で「ボン」という爆発音を聞きました。二基が爆発し、これは、やばいこと起きているぞと実感しました。親は「逃げるぞ」と、夜の9時には車を出して、郡山市まで向かいました。あてもなく向かったのですが、原発近隣住民を受け入れている避難所を調べ、たどり着いたのですが、浜の人たちがすごいいっぱいいてびっくりしました。
その次の日、3月13日は、新潟からいとこが郡山の避難所に来てくれたのが心強かったです。なんでもない励ましというか、会うだけで安心できたんですね。そして、浪江のおじいちゃんおばあさんを新潟に連れて行ってくれました。残った家族4人は着る服が無いので、「しまむらで買おう」となり、郡山の店舗に行ってみたら店員さんもお客さんも普通にいて、なんで自分たちだけこんな目にあっているのだろうと強く思いました。同じ県内なのに過ごし方があまりに違い過ぎて。
避難所でパン配給受けて、携帯の充電をして、足りない毛布を買って、ガソリンスタンドで1〜2時間並んでと、とてもせわしなく動き回りました。そして、前日の避難所に戻ってみると、自分たちの毛布3枚だけになっていて、たくさんいた人たちが誰一人いません。避難所が閉鎖されたことを知りました。民間のスーパー銭湯でしたからしょうがないですよね。
それから慌てて避難先探しです。浪江町から避難する人たちを受け入れてくれる郡山の聾学校の避難所を知り、そちらに移動しました。夜なのに職員の方々が親切に出迎えてくださり、とてもほっとしたことを覚えています。味噌汁、おにぎり。ひさびさにあったかいものをいただきました。しかし、その避難所も狭い和室に、3、4組の家族がいて、3日間はなんとか過ごしましたが、これはしんどいねとなり、いとこの家のある新潟へ移動しました。一泊だけ先に祖父母が避難したいとこの家に泊まらせてもらったのですが、次の日には両親が手配してくれた六畳一間のアパートを借りて、一週間くらい過ごした。時々いとこが気分転換にと近くのイオンモールに連れて出してくれるのですが、そこにあるあまりの日常とのギャップがショックで、わたしたちはいったい何なんだろうと思いました。
その頃も小学校の卒業式が気になっていました。浪江町の小学校の卒業式は中止との連絡は受けていて、しかし、4月の頭には浪江に帰れると思っていたんです。それなのに「しばらく帰れない」と親に言われ、それまでは涙も出なかっのですが、初めて号泣しました。友達がどこにいるかもわからなかった。
311の日、待機していた小学校で当時一番仲が良かった友達と、「またね、明日ね。でも明日は学校の片付けをしたり、忙しいんだろうね」と言って別れました。でも、その友達とはもう会うことはありませんでした。
その後、中学2年の時に一回だけ仙台で会いました。会ってみると頭がフリーズしてしまいました。ほんとうはこの子と同じ中学校の生活を過ごすはずだったんだなあって。今は違う制服を着て、別々のところに離れて暮らしている。同じ浪江町の地元の中学校の制服もジャージも買っていたのに。それを一緒に着ることができなかったんだなぁ。そんなことを思いながら3時間、311の後にお互いが体験したことを話し合ったことを覚えています。彼女はおばあちゃんのいる山形の家へ引っ越して、それっきりです。
姉がいわき高校に合格していたので、いわき市にアパートを借りようということになりました。わたしは全く知らない中学校に通うことになりました。入学式の日、学校の教室に連れて行かれ、自分のサイズの制服を選んでと言われるがままに中学校の制服に着替え、そのまま入学式となりました。当初は、原発事故の被害の大きかった地区の子どもたちが集められたクラスで、それは心強かったですね。
浪江町の実家には震災後に帰ったことはある?
今までに2度、一時帰宅で帰りました。初めては2014年の3月23日でした。線量が高いので15歳以上でないと入れなかったんです。ひさびさに帰ることはうれしかったけど、自分の家に入って、その荒れ果てた姿にショックを受けました。周りは太ったネズミが走り回っていました。自宅には明らかに泥棒が入った痕跡がありました。小学生の時に、親に「もっと大きい家に引っ越したい」とか言っていたことを後悔しました。
(初めて防護服を着て一時帰還した際に撮影された実家の外観)
いつも団員インタビューではお決まりで聞いている質問です。311の経験は菅野さんをどう変えましたか?
今になれば被災地の人たちは「震災を経て成長した」と言ったりされているけど、テレビやメディアなんかで報道されている話は嘘くさいです。震災を通じて学んだことと言えば、「当たり前ということほど幸せなことはない」です。住む家も無くなった、お金も無くなった。実際は津波で人がたくさん亡くなった。よく知っていた先生の生まれたばかりの娘さんはおばあちゃんと一緒に津波で流されてしまいました。震災で身近な人を亡くした方の前で「震災を通して成長しました」とはとても言えないです。中には原発事故のせいで精神的に追い詰められて亡くなった人もいます。
「震災を経て成長した」。
そんな、さらっとした一言は言えないです。わたしにとっては、とてもたいへんな目にあったけれど、そこで親がかんばってくれたことが有難いです。中学、高校時代のわたしのモットーは、「この子、被災したんだと言われたくない。」でした。浪江町の子として避けられるのも嫌だった。実際、最初に避難先の郡山で受けた放射線量の検査ではひっかかりましたし、中学生の時の甲状腺検査でもひっかかりました。友達で不登校になった子もいます。原発に対してそんな知識は無いけど、その必要性とか言っている人がよくわからないです。まだ原発があること自体が意味わからないです。
普通に過ごすためには、たいへんでした。でも、こんなことは頑張りにはならないと思っています。すべて親に用意してもらった。何不自由なく過ごせる環境を整えてくれた親にはただただ感謝しかありません。いま、音大に行けているって、本当に毎日親には感謝しています。
音大に行きたいと思ったのはいつ?
いわき市での中学2年の時に、お医者さんのたちによるアマチュアの復興コンサートを聴く機会がありました。それが、なぜかまるで自分のためだけに演奏してくれたかのようで心に響き、感動たんです。その時に、自分がプロの演奏家になったら、いつか誰かの力になれるかもしれないと思ったのです。小学校からのフルートとピアノはやっていました。いわきの高校の部活で吹奏楽に入り、とても熱心な学校だったので、フルートに一所懸命に打ち込みました。
東北ユースオーケストラでこれから何をしたいですか?
たまたま高校三年の時にスマホで検索していたら東北ユースオーケストラの存在を知りました。趣旨を読んで「自分にぴったりなオーケストラがある!」と思い、うれしかったです。それまでオーケストラの経験も無かったですから。東京音大を受験し合格できて、事務局に電話で「東北ユースオーケストラに入りたいと、団員募集はしているのですか」と問い合わせて、昨年度の第3期から団員になることができました。
団員のみんながみんなわたしのような体験をしていないですから、機会があれば団員の人たちにこの経験を話してみたいと思います。こんなことがあった同じ地方の人として、東北ユースオーケストラとして意味を持って活動しやすくなるのではと思います。わたしは話すことが苦にならないので。たまに泣きたくなる時もありますけど。
菅野さんにとって311の後、音楽ってどんなものでしたか?
音楽を通じて発信できることがあると思っています。思えば日本で世界でも前例のない事故に巻き込まれて貴重な経験をしました。こういうことがあったんだと伝えることは、戦争のことを言い伝えるように、もちろん言うことも楽しいことではないけど、伝えることの大切さを感じています。何万人かのうちの1人としての責任でしょうか。少し話すだけでも、意味があるのかなって。東北ユースオーケストラは、坂本監督のような世界に知られている人のもとで活動している訳ですから、発信しないのはもったいないと思います。わたしは望まれれば震災のことを語らせていただきます。震災で避難して、今はこういう気待ちになったんだ、ということを。
言葉だけではなく、音楽でも伝えることもできると思っています。だから、震災に逢った人の立場を思って演奏したい。
これまでにわたし自身、復興していると思ったことは一回も無いです。
東北ユースオーケストラは自分が成長できる場だと思います。
震災のことを伝えていきたい。家には戻れず、友達に会えなくなった。あの自分の大好きだった町に帰ることができない。でも、あえて言うと自分の心が復興してるかな、強くなったかな。
学業とバイトで忙しい合間をぬってしっかり時間を取ってくれた菅野さん。話しづらいことも多々あったと思いますが、どうもありがとうございました。
「わたし自身、復興していると思ったことは一回も無いです。」
この一言がとてもとても強く心に残りました。
ひとの命自体がかけがえ無く、どんなに輪廻転生を信じようとも、このいまここに授かっている、この生きる人生は一回限りのものです。しかし、命に限らず、すべての事物や感情も含めて、一度失ったものは取り戻せないのだなと。
今やパソコンの誤操作を簡単なキー操作一つで取り消したり、失ったデジタルデータをバックアップから復元したりしていますが、実はそんなことは現実の世界においては無いのです。一度落ちた屋根瓦は割れたままです。別の似た屋根瓦がそれに取って替わることができたとしても、それは前とは違う物に過ぎません。友情などの人間関係においてもそうでしょう。一度離れたり失われたりした感情は戻らない。紀元前の世の東西の哲人が言ったように、「同じ川に2度入ることはできない」のです。
ひょっとすると「復興」という考え自体に無理があるのではとも思えてきました。元に戻す「復元」や「復興」ではなく、むしろ新たに共につくる「再興」や「再共創」という考えに立ったほうがいいのではないか。
菅野さんは自身の経験を経て、音楽を通じて発信できることがあると言ってくれました。音楽にできることは何なのか。そんなことを考えている時に、京都大学の霊長類研究所で長年チンパンジーの研究を続けられた松沢哲郎さんの新刊『分かちあう心の進化』という本をたまたま手にしていました。野生チンパンジーは、声やドラミングで仲間とリズムやテンポを呼応させながら「ともに何かをする」「息を合わせる」ことで、音に乗せて何かを伝えている。音が情報を運んでいる。その結果、送り手も受けてもお互いが「想像するちから」をはたらかせて、目の前の見えないものを心に思い浮かべます、と指摘されています。音楽の他にも言語や絵画、料理の例を引き合いに出しながら、芸術とは「想像するちからを伸ばすこと」であり、「分かちあうもの」だとの考えを述べられています。
東北ユースオーケストラは、311を3県で体験した同世代という条件だけでつながった混成オーケストラです。今いる環境や立場も違う団員たちが、お互いの体験や思いを想像しながら、ひとつの音楽をともに奏でる。その偶然の喜びを団員たちだけでなく、この演奏をサポートし聴いていただける方々と分かちあうこと。このこと自体がすでにメッセージであるのだということにあらためて気づきました。もちろん演奏内容の質的向上も伴ってのことですが。
ともあれ浪江町出身の団員の体験談と現在の思いを深く聴くことで、東北ユースオーケストラを続けていくことの意義を再確認できた確かめられた。そんな気がしています。近々もう一人の浪江町出身の団員のインタビューをご紹介する予定です。
末筆ながら今月の西日本豪雨で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。東北ユースオーケストラで何かお力になれそうなことがありましたら、どうぞお気兼ねなくご連絡をいただければと思います。
どうか当たり前の暮らしに早く戻られますように。
引き続き東北ユースオーケストラへのご支援もどうぞよろしくお願いします。